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2020.4.8

はとバス昭和物語  第5回 バス業界の苦闘の日々からの脱却(昭和45~49年)

はとバス昭和物語  第5回 バス業界の苦闘の日々からの脱却(昭和45~49年)
「人類の進歩と調和」をテーマに、77ヶ国が参加し、約半年にわたる開催期間中に6,400万人を超える人々が訪れた、昭和45(1970)年の大阪万博(日本万国博覧会)EXPO'70。東京オリンピックから続いた国内旅行ブームは、この世紀のイベントでひとつの頂点を迎える。好景気に沸き返る旅行業界であったが、その波に乗ることのできない部門があった。それは、東京オリンピック以降多くの難題を抱え、その回復のきっかけを掴めずにいたバス業界である。世のお祭りムードを横目に、苦況脱出への足がかりを必死に模索するバス業界。はとバスとて、例外ではなかった。(写真:大阪万博の開会式。77ヶ国が参加、6,400万人超の入場者を集め、大成功のうちに最終日、昭和45(1970)年9月13日を迎えた)

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経済大国ニッポンの姿を世界に発信した“バンパク”

それぞれ持ち場ごとのユニフォームに身を包んだスタッフが勢揃い。押し寄せる観客に対応した

 昭和39(1964)年の東京オリンピック以来の国家的事業となった「日本万国博覧会」、通称:大阪万博。東京オリンピックが、日本の戦後復興を世界にアピールする場だったのに対し、大阪万博は驚異的な経済成長を続け、昭和43(1968)年には国民総生産(GNP)で、アメリカに次ぐ経済大国となった日本の国力を世界に知らしめた。

 海外からは76ヶ国、国内からは日本政府ほか日本万国博覧会地方公共団体出展準備委員会など32団体が参加。「人類の進歩と調和」をテーマに、世界中の人々が一堂に会する、かつてない国際的なイベントであり、国民の目を広く世界へと向けさせた。

 舞台となったのは、大阪府吹田市の千里丘陵。約330ha(約3.3km²)の広大な土地に、独創性を競うかのように各国の個性豊かな大小の展示館(パビリオン)116棟が立ち並んだ。

 会場の総合設計は丹下健三や黒川紀章、菊竹清訓らが担当。太陽の塔の作者である岡本太郎らのアーティスト、さらにロゴマークや会場案内の絵文字、図記号(ピクトグラム)を制作したデザイナーなど、日本のクリエイティブ力が結集した機会となった。

万博の陰で苦戦する定期観光 はとバスならではの打開策とは

昭和45(1970)年3月開業の世界貿易センタービル(浜松町)に案内所を新設。羽田空港からモノレールを利用する国内外の観光客に対応した

 はとバスとしては、会場が大阪だけに定期バス、貸切バス事業には直接の影響は見込めないだろうと予測を立てていたものの、近年では類を見ない大型イベントであること、外国人観光客は東京を経由して会場入りを試みるのではないか、または東京観光を行うだろうとも検討。日を増すごとに期待感も増し、浜松町にある世界貿易センタービル内に案内所を新設するなど、万全の体制を築いた。

 邦人コースは短時間で都内周遊ができるようにと、世界貿易センタービル40F展望台シーサイドトップから代々木競技場を回る「東京ミニコース」を設けた。一方、外国人向けには午前、午後コースの増強策として田崎パール店(TASAKI)<真珠見学>-清澄庭園-浅草観音(浅草寺)-浅草スペースタワー(1973年営業廃止、解体)をめぐる「外人特殊午前Mコース」と、福田屋(日本家屋の料亭、閉店)-明治神宮-代々木競技場-皇居をめぐる「外人特殊午後Tコース」を昭和45(1970)年3月から開始した。しかし、万博の定期観光部門への影響は芳しくなかった。

 貸切部門では輸送人員、収入とも前年比約8%増と、ある程度反映がみられた。そんななか、国内・海外旅行業を担っていたグループ内の「はとバス興業」が大きな実績を残す。大阪万博に際しては、万博急行、万博パブリック、万博吉野遺跡と霊場、万博京都葵祭など、様々な「会員バスコース」を企画、実施して業績をあげた。

毎日、話題に事欠かなかった全国民注目のイベント

大阪万博のシンボルゾーンに建設された“太陽の塔”のもと、国境、人種、政治体制などを越えて、世界の人々が集った

 大阪万博は昭和45(1970)年3月15日から9月13日まで、半年の会期中の入場者数は6,421万8,770人、1日の最高入場者数83万6,000人を記録。目標入場者数の3,000万人を倍する数となった。入場料は大人(23歳以上)800円(現在の2,400円に相当)、青年(15~22歳)600円、小人(4~14歳)400円。平均月収が5万円ほどの時代、決して安い金額ではなかったが団体旅行、個人旅行を取り混ぜ、全国から観客が押し寄せた。

 その要因のひとつとして、テレビ、新聞、ラジオなどによる連日の大阪万博報道が挙げられる。アメリカ館のアポロ宇宙船と月の石、ソ連館のソユーズ宇宙船をはじめとした珍しい展示物、連日会場内で行われるイベント、お国柄を反映した色彩豊かな制服姿のコンパニオン、はては展示館前の大行列の様子まで、話題にはこと欠かなかった。“ばんぱく”や“エキスポ”という言葉が、広く知られ、だれもが口にするようになったのも大阪万博以降のことである。

 万博開催下、首都交通圏のバス(貸切、乗合ふくむ)輸送人員は昭和45年度前年比4.7%増と予想を下回ったが、開催地である京阪神交通圏はなんと1%減という惨状を呈した。万博ははとバスのみならず、バス事業者すべてには恩恵を与えなかったのである。

世の観光ブームも経営に資することなく危機は続く

全国的な観光ブームを迎えていた昭和40年代。はとバスガイドのサービスは、いつの時代も利用者から高評価を得ていた

 東京オリンピックで海外への目を開かれた日本人にとって、大阪万博は世界をより身近に感じる画期的なものとなった。また、昭和45(1970)年3月1日、海外観光渡航時の持ち出し外貨枠が1人あたり700ドルから1,000ドルへ拡大、同月11日にはパンアメリカン航空(1991年に倒産)のジャンボ機が羽田空港に初飛来するなど、海外旅行は単なる憧れから実現可能な旅へとなりつつあった。

 以上のように、日本人に大きな衝撃を残した大阪万博であるが、当時のバス業界はどのような状況にあったのだろうか。東京オリンピックから大阪万博へかけて全国的な観光ブーム下にありながら、需要停滞、競争激化、整理統合等、多くの難題を抱えたままバス業界は推移していた。はとバスも例外ではなく、経営苦難期にあたり、柱である定期観光バス事業の輸送人員向上に全力で取り組んでいた。

 そんな矢先、常に率先し陣頭指揮にあたっていた渡辺伊之輔社長が、大阪万博閉幕前日の昭和45(1970)年9月12日に急逝。ここに優れたリーダーを失うことになる。

深刻なガイド不足発生 遂にガイド廃止案の声が噴出

はとバスにとって、ガイドによる観光地の案内は重要なサービス。求人難でガイド確保が大きな課題となった、昭和47(1972)年ごろ

 昭和35(1960)年の就任以来、常に全社員の先頭に立ち事業に邁進してきた渡辺社長の急逝は、はとバスにとって大きな痛手となった。そんな状況のなか、さらなる難題がはとバスにふりかかる。昭和46(1971)年ごろから、ガイドの求人難が深刻化したのだ。

 その大きな要因となったのが、スーパーマーケットの登場だった。当時スーパーは最先端の人気職場で、高校を卒業した女性が大量に流れていく現象に見舞われた。社内では、「いっそガイドを廃止したら」という意見も出るほどで、他社の観光バスではガイドを乗せないで運行するところもあった。そのころ貸切観光部に在籍、後にガイド部ガイド2課長となった西喬(にし・たかし)氏は、当時を次のように振り返る。

 「話し合いは紛糾しました。しかし結論は、やはり『はとバス』にはガイドが必要だ、ということでした。お客様はただ観光地を見に来ているのではない。ガイドの案内もお客様に提供する大切なサービスなのだ、と」。

 結論が出てからの対応は実に迅速だった。昭和47年(1972)年9月、社内に「ガイド対策推進委員会」を設置。労働条件や給与の見直し、教育法の改善、寮の近代化など、あらゆる施策を講じる。そうした企業努力を経て、再び優秀なガイドが集まってくるようになったのだった。

高度経済成長期の終焉、石油危機という打撃

昭和48(1973)年、アラブ諸国の石油政策により世界的に石油危機が勃発。給油スタンドも営業停止を余儀なくされた

 高度経済成長期を謳歌してきた日本経済に冷水を浴びせる事態が発生した。昭和48(1973)年の石油危機である。同年10月にイスラエルとアラブ諸国間との緊張が高まり、第四次中東戦争が勃発。開戦を受けてアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は原油生産削減、および非友好国への禁輸措置を決定した。

 これによりOAPECからの原油輸入量は急減し、原油価格は10月から翌昭和49(1974)年1月までの間に石油危機以前の1バーレル(約159ℓ)=2.59ドルから11.65ドルへと、4倍近くに高騰(トヨタ自動車75年史「原油公示価格」より)。

 事態を重く見た日本政府は官民一体となっての石油節約運動を展開し、11月には「緊急石油対策推進本部」を設置。石油の使用制限、石油製品の価格調整等の強力な行政指導を行う旨の「石油緊急対策要綱」を実施する。

“買い占め”騒動勃発 バス業界に押し寄せる自粛の波

昼コースで大活躍していたデラックスバス。石油危機による昼コース運行削減指示で使用不可に

 石油危機の影響を受け、物資不足が起きるという噂が世間に広まり、人々はトイレットペーパーや洗剤などを求めスーパーへ殺到する、いわゆる“買い占め”騒動が発生。連日ニュースとして報道された。デパートでは省エネ対策の一環としてエスカレーターの運転を中止。街灯も深夜電力の消費を抑制するため、早期消灯が試みられた。テレビ局各社は深夜放送を見直し、NHKは15時から16時30分台と、深夜23時以後の放送を休止。民放も24時以後は放送休止とする処置が取られた。

 日本バス協会に対しても、運輸省(現在の国土交通省)から「石油等の使用節減について」の示達が発せられる。定期観光バスは観光客誘致のための過度の広告宣伝を自粛し、路線開設、増車は控える。貸切バスに関しては、職域団体等に対する慰安旅行の誘致PRを自粛。また、大幅削減対象として昼コースの自粛。といった厳しい内容が含まれており、中心に起用していたデラックスバスも使用不可となった。燃料確保も大きな課題となり、地方のバス会社と提携して現地給油を行うなどの方策を講じることになる。

さらに加速するインフレ “狂乱物価”に苦しむ日本

燃料不足から東京近郊の豊かな自然を訪れる企画を発案。画像は「御岳・奥多摩バレーラインコース」で立ち寄る奥多摩湖

 石油危機に際し、はとバスでは定期観光バスのコース内容も全面的な再検討がされた。営業収入に影響を及ばさない範囲内での走行距離数削減により、運行の効率化を推進。また、コースの削減や運休、発時刻の変更などを実施した。
 
 これらの措置は利用者サービスの面では当然マイナスに見えるが、はとバスでは、効率的な運行スケジュールや各営業所の適切な運用をはかる絶好の機会とプラス思考に捉え、苦況の打開に努めた。この経験は“省エネ”という言葉が一般的となった、低経済成長時代におけるバス事業のあり方を模索していく出発点となり、後の第二次石油危機に際しては、見事にこれを克服していく。

 一方、石油危機は、それ以前からの急速なインフレをさらに加速させることになり、当時の大蔵大臣(現在の財務大臣)・福田赳夫が発した“狂乱物価”という言葉が生まれるほどの状況が続く。はとバスにおいても運賃改定が避けられず、陸運当局に対して繰り返し値上げ申請を行い、一般貸切部門は昭和48(1973)年4月と翌年10月、一般乗合部門は昭和49(1974)年12月と昭和51(1976)年にそれぞれ改定認可を得た。これにより運行赤字による倒産という、最悪の事態だけは回避することができたのだった。

石油危機での運行制限を受け、定期観光コースを改変

昭和46(1971)年に登場した、高級志向の「ワールドナイトAコース」では、フラメンコショーが名物に

 昭和45(1970)年の大阪万博後、襲いかかった石油危機によりはとバスは燃料消費を抑えるため、定期観光コースでも大いに内容見直しを余儀なくされた。

 その最初ともいえるのが、昭和46(1971)年2月開始の「ワールドナイトAコース」だろう。短い距離でも十分楽しめるよう帝国ホテルのレインボーラウンジをスタートし、マキシム・ド・パリ(現在は閉店)でのフランス料理フルコース、エル・フラメンコ(現在は閉店)での本場フラメンコショーを楽しむという、内容を重視したものである。料金は大人9,600円(現在の2万8,800円に相当)と高額だったが人気を博し、以後シティホテルのラウンジやレストラン、銀座のバー、三越でのショッピング相談、歌舞伎観劇などを組み込んだコースが続々と登場する。

 また、窓口に寄せられた、都心を離れ自然を求める観光旅行計画を、という声に応え、東京近郊の豊かな自然を楽しんでもらう定期郊外コースも昭和47(1972)年から運行を開始。「三浦半島一周ブルーラインコース」や「御岳・奥多摩バレーラインコース」(のちに「御岳・奥多摩ファミリーコース」へ変更)など、余暇に自然を楽しむという新たなライフスタイルにも的確に対応していった。

海外旅行分野に進出 業績を拡大した「はとバス興業」

昭和47(1972)年4月運行開始となった「夜の探訪Xコース」で、銀座の和風バー「星座」(現在は閉店)を訪れたときの光景

 ガイド求人難や石油危機の時代でも、はとバスは利用者の要望を汲み上げることは怠らなかった。昭和47(1972)年1月には、人気が高い神社や寺の観光を熱望する声に応え、伊勢、善光寺、京都、金毘羅、出雲大社などへの「新春初詣コース」を運行。翌48(1973)年8月には各地の祭りに特化した恐山大祭、高知よさこい祭り、徳島阿波踊りなどのコースを開設し、好評を博した。

 また、はとバス興行は海外旅行分野へも積極的に進出していく。商品企画のユニークさを追求し、グアムとサイパンの間に位置しながら、当時は無名に近かったロタ島に焦点を当てた企画などを販売。昭和48(1973)年からは、はとバスグループの海外パック旅行商品である「エメラルド・ツアー」の販売を担当し、フィリピンのマニラ、セブ島を中心とした海外ツアーにも着手。特に「セブ島ウエディングコース」は世間の話題を集め、業績にも大きく寄与。石油危機に困窮する局面の打破にもつなげることができたのだった。

多角化の旗頭、銀座キャピタルホテルが開業

昭和47(1972)6月には、銀座キャピタルホテルが完成。低料金ホテルを希望する外国人観光客の需要もうまく取り込んだ

 昭和48(1973)年以降のたびたびの運賃改定により、運行赤字倒産という最悪の事態は回避できたはとバスであるが、経営内容の向上が運賃改定によってのみ果たされるはずがないことは、全社の共通認識であった。ここで経営の多角化と近代化が喫緊の課題となる。

 この経営路線の岐路に立つ大事な局面で指針となったのが、志半ばで不帰の人となった、前社長、渡辺氏の遺志だった。社長在任時、当時の第二次ホテルブームに着目、経営基盤強化策として保有資産を有効活用する事業計画を打ち立てていた。渡辺前社長が布石を打った多角経営路線は、昭和45(1970)年12月に就任した佐藤登社長のもと、実現へとひた走る。

 昭和46(1971)年2月、別会社はとバス観光に貸与中であった中央区銀座2丁目1番地の土地にビジネスホテルを建て、有効利用をはかる計画がスタートし、昭和47(1972)年6月に完成。地下1階、地上10階のビジネスホテルは「銀座キャピタルホテル」と命名され、同年7月に開業する。オープン翌年には石油危機が発生し、高級志向のシティホテルは苦況にあえぐが、それを尻目に好業績をあげ続け、はからずもその事業選択の正しさを実証することとなった。 

<「はとバス昭和物語」番外編「車両でたどる はとバス昭和史」につづく>
文:今田 壮
編集協力:株式会社P.M.A.トライアングル
【ご注意】
※本文中に記載の固有名詞、ツアー名称や言い回し表現は当時のものを使っています。現代では自粛すべき表現や一般的ではない言い回しなども含まれております。あらかじめご了承ください。
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