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2020.4.9

はとバス昭和物語 第6回 新時代に応えるコースと車両が次々登場(昭和50~57年)

はとバス昭和物語 第6回 新時代に応えるコースと車両が次々登場(昭和50~57年)
昭和48(1973)年の石油危機をきっかけに、日本経済は大きな転換期を迎える。以後、高度経済成長期のような経済の飛躍的成長は望めなくなったが、省エネ時代を経て日本製品が飛躍的に国際競争力を高めるなど、着実な回復を見せた。それと同時に消費動向も堅調に推移。国内経済は安定成長へと移行し、国民の消費が景気を牽引する時代を迎える。この消費者主導型経済のもと、旅行業界を取り巻く環境も大きく変化。はとバスはその動向に迅速に対応し、多彩な新コースや新型の豪華バスを続々と登場させるなどして新たな需要の取り込みに果敢にチャレンジしていく。(写真:昭和53(1978)年のガイド入社式。森英恵デザインの夏服姿での記念写真。当時のはとバス「東京ダイナミックBXコース」の訪問地「船の科学館」にて)

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高度経済成長時代の終焉とともに激変した経営環境

昭和50(1975)年6月30日、電算室に導入された電算機(コンピューター)の火入れ式。始動スイッチを押すのは第5代社長の佐藤登

 昭和30(1955)年頃から20年近く続いた戦後日本の高度経済成長は、昭和48(1973)年秋の石油危機により終焉を迎えた。折からの列島改造ブームによるインフレに原油価格高騰が追い打ちをかけ、狂乱物価といわれるほど物価が上昇。観光バス業界もそのあおりを大きく受け、自家用車の急速な普及による貸切バス輸送人員の伸び悩みにも直面。はとバスは、経営多角化と近代化への改革が待ったなしの状況となっていた。

 とはいえ、はとバスの主力事業である定期観光バス事業は、低価格で手軽な都内観光の手段として業績低迷を跳ね返すだけの力を秘めたものだった。それを開花させるべく、はとバスは経営コストの徹底削減、減量経営の推進にさっそく着手する。

 その過程で大きな力を発揮したのが、当時、電算機と呼ばれたコンピューターである。経理事務の省力化、経営判断に資するデータの迅速かつ的確な把握などへの活用を見込み、昭和49(1974)年3月には、汎用小型電算機(コンピューター)を導入決定。翌50(1975)年6月30日に火入れ式を行った。

 企業での電算機(コンピューター)活用の黎明期にもかかわらず、経営陣の先見の明がスピード導入へと繋がった。これにより業務効率化の道を開くことに成功した。

山陽新幹線全通に乗じて九州の顧客誘致も積極展開

昭和50(1975)年6月、新幹線博多開業記念で九州各地を回った、はとバスの宣伝隊一行。長崎での記念写真

 昭和50年代初頭の旅行業界で画期的な出来事のひとつといえば、昭和50(1975)年3月の山陽新幹線、岡山─博多間の開業である。昭和47(1972)年3月の新大阪─岡山間の開業から3年、ついに東京─博多間(1,619km)が約7時間で結ばれることとなった。これを期に、はとバスでは九州一円の顧客を都内観光に誘致するべく、東京タワー(日本電波塔株式会社)と共催で宣伝隊を九州に派遣する。

 しかし当時、国鉄運賃の値上げ、大口団体客の国鉄利用減少などにより地方からの上京客は減り、はとバスの主力コースである「東京半日Aコース」などにも影響が見られていた。そこで、石油危機によるパニックが一段落する時期を見計らい、東京観光へと上京を促す宣伝活動を開始したのである。

 ガイド8名、バスドライバー2名、東京タワーガイド3名を含む計22名の「新幹線博多開業記念宣伝隊」を結成、6月23~28日の5日間にわたって九州各地で活動を展開。駅頭でのチラシ配布にも注力し、「近くなった東京へ」とアピールした。また同時に、営業所での顧客サービスの強化をはかるべく、東京営業所(東京駅丸の内南口)の乗客待合室の拡張も行った。

バス部門事業強化へ向け、2本部体制を発足

新体制のもと、本館に次いでオープンさせた「銀座キャピタルホテル 新館」<昭和54(1979)年12月>

 厳しい経営環境のもと、効率経営への各種の布石を打った第5代社長の佐藤登が、石油危機対策が一段落した昭和50(1975)年8月に退任。同月、第6代社長に久田富治が就任した。時代は経済低成長という新たなフェーズに入っており、新時代に即応した体制づくりへと邁進する。同年9月には、さっそく従来の3事業本部体制を改変。管理本部を廃止し、関連事業本部をホテル部と改称するとともに、バス事業本部を営業本部と輸送本部の2本部体制としてバス部門事業の強化へと走り出す。

 この新しい体制のもと、早急なテコ入れを必要とされていたのが、創業以来かつてない業績低下に直面していた定期観光バス部門である。輸送人員は、昼コース、夜コース、外国人コースなどを合わせた全体で、昭和39(1964)年度の122万9,722人をピークに下降をみせ、50年度には87万3,948人(株式会社はとバス「はとバス三十五年史」より)へと減少していた。その大きな要因は国鉄が昭和51(1976)年11月に行った大幅な運賃値上げ。これが人々の旅行意欲減退の一因となっていた。

東京郊外コースを首都圏全域でアピール

はとバスの郊外コースのひとつ、「夜の観光と伊豆七島コース」内の三宅島の景色

 輸送人員減少の主要因が外的なものであるとはいえ、それをあげつらっていても局面は打開されるものではない。そこで、はとバスでは、地方上京客減少による定期観光バス利用客減を補うべく、都内および首都圏の旅客を郊外各コースへ誘致する方針を決める。

 「江の島・鎌倉」「三浦半島一周ブルーライン」「湘南海岸と芦ノ湖箱根回遊」「御岳・奥多摩ファミリー」「夜の観光と伊豆七島シリーズ」「ミナト横浜名所めぐり」「奥多摩秋川パノラマコース」などの宣伝活動を、折込広告などを用いて積極的に展開した。

 この新たなチャレンジは、上京客の落ち込みをカバーするだけの成果は得られなかったものの、関東周辺の自然を見直す機運が高まっていた都会人への訴求力は高く、定期観光バス部門の新たな顧客開拓に貢献した。

主力である昼コースの大改訂への取り組み

昼コースを見直す取り組みの一環として、はとバスは「東京1日Cコース」の浜松町─羽田空港間をモノレールの利用に改めた

 地方上京客の減少という局面を打開すべく、郊外コースに注力するなど様々な施策を展開したはとバス。下車場所に特徴をもたせた夜コース、講談師をガイドに仕立てるなど演出を伴った「名所旧跡めぐりコース」などは利用客の増加をみせるものの、主力である「東京半日」「東京1日」「NHK羽田モノレール」など、名所旧跡めぐり型の各コースの需要減は顕著で、業績低迷傾向が大きく変わることはなかった。とはいえ、主力各コースは依然として全体の輸送人員の60%を占めており、対応に手をこまねいていることはできなかった。   

 そこで、利用者の都内観光にあてる時間が年々減少し、かつ多様化している現状に合わせ、昭和52(1977)年3月のダイヤから昼コースの大幅な見直しに踏み切った。

コース内容のさらなる充実化と幅広い世代に向けた対応

「東京あの町この町Lコース」は、隅田川遊覧船への乗船などを通して東京の下町風情を堪能できる内容だった

 この昼コースの大改訂で誕生した新コースにはどのようなものがあったのだろうか。人気の昼の半日コースでは、昭和52(1977)年3月より下町を中心とした「江戸名所AXコース」の運行を開始。

 同じく新設の「東京ダイナミックBXコース」は、戦後ベビーブーム期に生まれた世代の夫婦と子どもたちの家庭をターゲットに、NHK放送センター、海と船の文化がテーマの「船の科学館」、京浜コンテナ基地(新幹線操車場など)、当時のトンネル技術の粋を結集して造られた「東京湾海底トンネル」といった新名所を組み込んだ。

 また改称された「東京あの町この町Lコース」は、従来の椿山荘または八芳園での食事と庭園散策に隅田川遊覧船乗船を加え、東京の下町風情をテーマとしたユニークな内容だった。

 そして、はとバス創立30周年となった昭和54(1979)年6月には、記念コースとして「江戸の心と風物・東京今昔散策コース」を運行。昭和43(1968)年以来、はとバスのガイド教習本の作成やガイド実地教育など、種々の指導を担当していた駒澤大学教授(当時)の桜井正信氏自らが全運行に乗務。その薀蓄を傾けたガイドは深い感銘を呼び、記念コースにふさわしい内容だったと語り継がれている。

訪日外国人観光客のニーズをつかみ、上昇気運に

はとバスの「ジャパンカルチュアルコース」でのお茶の体験。日本の伝統を気軽に味わえると好評だった

 ここで目を訪日外国人観光客に転じよう。昭和50年代前半は、円相場高騰などからその数は低迷傾向に。円高は短時間により多くの観光地を巡りたいという新たなニーズも生み、はとバスの外国人コースも見直しを迫られた。

 そこでまず着手したのが、半日コースの改変だった。「外人午前Mコース」「外人午後Tコース」は昭和50(1975)年の内容変更に続き、昭和54(1979)年にはさらに内容を充実化。56年には東京タワー、皇居東御苑、明治神宮、椿山荘、田崎パールの5ヶ所を6時間で巡り、東京の情緒的な面と近代的な面を広く観光できる「パノラミックコース」を新設した。

 こうした一連の対応策が好結果を生み、円高の鈍化も手伝って昭和54(1979)年7月~55(1980)年6月には輸送人員数が上昇傾向に転じる。そして、昭和50(1975)年以降に新設され、赤穂浪士とゆかりの深い「泉岳寺」や江戸の古い家屋を展示する「日本民家園」を訪れる「禅と民家園コース」、和食、生花、折り紙などを体験できる「ジャパンカルチュアルコース」、原宿ファッション街への訪問と「上野アメヤ横丁」での買い物を含む「東京シティライフコース」など、新旧様々の日本に触れられる「外人スペシャルコース」も定着していった。
 

東京発の日帰り・1泊コースを続々投入

ファミリー向け企画「マザー牧場と東京湾フェリー(横断)コース」のパンフレット。牧場では催しものとジンギスカン料理を楽しめた

 定期観光バスと並ぶはとバスの経営の柱「貸切バス」は、昭和51(1976)年以降、輸送人員の上昇傾向を取り戻す。業界全体でも、その輸送人員は、昭和49(1974)年を底に、昭和52(1977)年には1億8,000万人台にまで回復した(日本バス協会「日本のバス事業」より)。貸切バスが自家用車よりさらに安価な旅行手段として見直され始めたのである。

 この機運に乗じ、はとバスでは、貸切本来の魅力である郊外志向に加えて、コース内容の刷新も図る。 貸切郊外会員バスコースとして、昭和50(1975)年2月には、カーフェリーの利用やホテル宿泊を含む「房総一周フラワーラインコース」、同年7月には渓谷美と武田信玄ゆかりの地を訪ねる「甲斐武蔵(かいむさし)と武田哀史コース」の運行を開始した。また、夏・春休みのファミリー向け郊外特設コースとして「マザー牧場コース」「香取神宮と犬吠パシフィックコース」を企画したのもこの頃である。

 ほかにも、「栃木路の旅コース」「万座温泉・八ヶ岳・清里高原コース」「はとバスゴルフツアー」などを運行。こうして、はとバスの定期並びに貸切の企画商品は整備が進み、東京を起点とする日帰りまたは1泊旅行の様々なコースが続々と誕生していった。

よりリッチで快適なバスの実現を目指して

特注の「ニューデラックスバス」。前面、側面とも大開口のウインドウで視界が広々

 石油危機後の昭和52(1977)年からは、車両の質的な強化と充実化がはかられ、次々と新型バスへの代替が進んでいた。いうまでもなく、観光バス利用の旅行商品においては車両そのものも重要な商品のひとつ。外観のイメージアップはもちろんのこと、車内からの眺望の向上、居住性への配慮も欠かせない。

 これらのニーズを満たすべく昭和52(1977)年3月、定期観光バスに「いすゞハイデッカー車」を特注改造した「ニューデラックスバス(53人乗り)」が導入される。

 12mのロングボディーに13列のリクライニングシートを配し、シートピッチは740mmを確保。超大型フロントウインドウを採用し、しかも前方の視界をよくするために前2列の床を傾斜させ、側窓下縁も傾斜させた新鮮なデザインを採用。あわせて側窓を大型固定化し、視野の拡大をはかった。

 このほかにも、バスの内外に先進的な試みを施した「ニューデラックスバス」は、昭和50年代前半の主力車両として毎年増車されていく。また昭和50年代に入ると、団体旅行の小規模化にともない、26人乗りや29人乗りの「中型デラックスバス」も数多く導入された。

車体のボディーカラーをレモンイエローに統一

昭和55(1980)年に導入された、昼ガイドのレモンイエローの夏服。軽快なイメージが、当時の時代背景にぴったりフィット

 昭和56(1981)年には、貸切バスに画期的なニューパノラマ車が導入された。180度回転、58度傾斜のリクライニングシートを採用し、12mのボディーにわずか35席をゆったり配置、大迫力のマルチチャンネル・ステレオシステムとカラオケ装置を完備した。豪華で落ち着きを醸すインテリアもあいまって、まさにハイグレードな貸切バスであった。

 そして、この間、はとバスでは、車両イメージの統一および一新にも着手。昭和54(1979)年3月以降に導入された車両は、屋根はアイボリー、ボディーは軽やかな印象のレモンイエローに統一された。はとバスを象徴するこのカラーは、近代的なイメージで車両が大きく見え、天候にかかわらず遠方から判別しやすいなど、多くの利点がある。また、このリニューアルと軌を一にし、昭和55(1980)年の昼ガイドの夏服にもイメージカラーのレモンイエローが導入された。

2階建てバスを初輸入! 豪華な外装に道ゆく人も振り返る

今や遅しと出発を待つ、はとバス定期観光2階建てバス第1号車。前田社長と百瀬東京駅長(当時)のテープカットで新時代がスタート

 常に観光客のニーズの一歩先を行き、観光バスの未来像を提示し続けたはとバス。昭和57(1982)年11月には、観光バスの歴史に新たな足跡を刻むことになる、2階建て「ダブルデッカー車」を1台8,000万円(当時)で初めて輸入する。

 はとバスが2階建てバス導入の検討にはいったのは、昭和56(1981)年。定期観光の輸送人員増をはかるためだったことはいうまでもないが、視点が高く眺望がよい、乗客の優越感を満足させる、異国ムードが感じられるなど、車両自体の魅力も大きなポイントだった。

 こうして導入が決定され、最初に購入したのが、西ドイツ・ドレクメーラー社製の3台である。同社のバスはヨーロッパでは「バスのロールスロイス」と称されるほど高級志向で知られ、その手作りの良さで高評価を得ていた。堅牢かつ優美でユニークなその車体は、近代都市東京の定期観光バスとして完璧にマッチするものだったのである。

 発案者である7代目の前田社長自らがドイツに赴き、その仕様決定にあたるなど、大きな期待を担った車両は昭和57(1982)年11月26日に横浜港に到着。翌58年元旦、運行を開始した。その堂々たる姿は、人々の視線を集めずにはおかなかった。

グループ内旅行業部門を、はとバス旅行に集結

昭和56(1981)年の設立当時、「はとバス旅行」は港区新橋1丁目のビルで業務を行っていた

 昭和56(1981)年9月に第7代社長に就任した前田弘は、会社設立の昭和23(1948)年に入社しキャリアを積み重ねた、初の社員出身の社長である。就任当時の交通、観光業界は、限られたパイを奪い合うシェア争奪戦が一段と厳しさを増し、一方で消費者の価値観の多様化、個性化への対応を迫られていた。

 はとバスは昭和50年代前半に営業総収入こそ増加傾向にはあったものの、法人税や事業税などを除く以前の「税引前利益率」は1%台と低迷を続けており、この厳しい局面からの1日も早い脱却が必要であった。

 当時のはとバスは、バス、海外旅行、ホテル、不動産賃貸の営業4部門体制、そのうち極度の不振に陥っていた海外旅行事業が最重要経営課題と目された。そこで打ち出されたのが、はとバスグループ内の旅行業再編である。赤字体質から脱却できない海外旅行部門は子会社のはとバス興業との競合も課題だった。

 そこで、前田社長の就任を機に種々の検討を行った結果、新会社を設立してはとバスの海外旅行の営業を譲渡、同時にはとバス興業を吸収合併し、グループ内の旅行業を一本化させることになる。こうして昭和56(1981)年11月、新会社「株式会社はとバス旅行」が設立された。

東京ディズニーランド(R)の開業に向けて準備をスタート

 海外旅行部門の営業譲渡により、バス、ホテルの2部門を柱とする事業体としての性格を鮮明にし、改めてバス事業の強化推進に邁進することになったはとバス。そこに新しく出現した大きな課題が、昭和58(1983)年4月にオープンを控えた、東京ディズニーランド(R)への対応準備だった。後に、日本の代表的な一大ファミリーエンターテイメントとなる施設の誕生による東京観光の新たなステージの幕開けが、すぐそこへと迫っていた。

<「はとバス昭和物語」第7回(昭和58~64年)につづく>
文:今田 壮
編集協力:株式会社P.M.A.トライアングル
【ご注意】
※本文中に記載の固有名詞、ツアー名称や言い回し表現は当時のものを使っています。現代では自粛すべき表現や一般的ではない言い回しなども含まれております。あらかじめご了承ください。
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