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2020.4.15

はとバス昭和物語 番外編 はとバスガイドの歴代制服でたどる もうひとつの昭和史

はとバス昭和物語 番外編 はとバスガイドの歴代制服でたどる もうひとつの昭和史
快適なバスの旅を演出する、"はとバスの顔"といえばガイドの存在は欠かせない。はとバスでは、昭和24(1949)年の第1期生から、これまで在籍したOGも含めると3,000名以上のバスガイドを輩出してきた。今回はそんな彼女たち、はとバスガイドにスポットを当てながら、昭和という時代を振り返ってみたい。まずはじめにガイドを語る上でこれを抜きにしては語れない制服の変遷。ファッションは時代を映す鏡というが、ガイドの制服も流行とは無縁でないことがそこから読み取れる。次は昭和30年代に活躍し、当時の思い出の品を今日まで大切に保管してきたガイドOGが語る思い出。その話から高度経済成長期における、はとバスの企業姿勢や取り組みが読み解けるだろう。そして最後はガイドの歴史を読み解く、いくつかの重要な出来事を取り上げてみた。いずれも時代と共に成長してきたはとバスの歩みが感じられ、伝統となり今へ引き継がれていることがわかる内容ばかりである。(写真:昭和43(1968)年、設立20周年のイベント時に撮られた歴代制服でのガイドたち。デザインや色彩にその時々の流行が伺える貴重な1枚)

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歴代の制服変遷(1) ~昭和20年代~ 

制服がなく、私服で乗務していた戦後のガイドたち

昭和29(1954)年開催「第4回全国バスガイドコンクール」。右から2人目が、はとバスの田中賢子ガイド。上着に肩章がついた初代はとバス制服を着用している

 昭和23(1948)年8月、産声を上げた新日本観光(現在の「はとバス」)は、昭和24(1949)年3月14日に、戦後のバスガイド1期生となる女性5名を採用した。この採用の5日後には乗務、という慌しさのため、当初の約2年間は制服がなく、ガイドは各自の私服で添乗をしていた。

 ちなみに、戦前に都内で定期観光バスを運行していた、はとバスの前身「東京乗合自動車」の時代には、ガイドはワンピースに飾りボタン、べルト、大きな襟でアクセントをつけた制服を着用していた。ただし、第二次世界大戦の戦局悪化とともに、国民服のような上着とスラックスに変わってしまったという。

 戦後の制服復活は昭和26(1951)年のこと。同年に開催された「第1回全国観光バス案内コンクール」の参加に合わせて制定され、この年の秋から正式に採用された。ちなみにデザインは濃紺の上着に肩章がついたもので、これが「軍服みたい」という意見がガイドや乗客から多く寄せられ、昭和29(1954)年に廃止、マイナーチェンジを果たすことになる。

歴代の制服変遷(2) ~昭和30年代~ 

景気上昇とミッチーブームで、制服もモダンから清楚へ

昭和31(1956)年の昼コースガイドの夏服。爽やかでモダンな白のブラウスにフレアのロングスカート

 戦後の焼け跡から驚異の復興を遂げつつあった東京。景気が上向くとともに世相も明るさを増し、それに呼応するように、はとバスガイドの制服も軽快で明るい雰囲気のものになっていく。当時はロングスカートが全盛だったが、夏服は白のブラウスにフレアのロングスカートで軽やかさを演出したり、冬服は襟元から白いブラウスをのぞかせてモダンさを醸すなど、うまく時代のトレンドを取り入れている。

 当時のバスガイドたちの写真を見れば、彼女たちが自信を持って制服を着こなしている様子がうかがえるだろう。頭にのせた制帽も、船底型になったり、ベレー帽になったりと、その時々の流行をさり気なく取り入れている。また、昭和32(1957)年には、早くも夜コースのガイドの制服に着物が登場。和服デザイナー、大塚末子氏を起用した意欲的なデザインで、グリーンの合着、ワインレッドの冬着、夏は浴衣が用意された。

 昭和30年代に女性から注目を集めたファッションといえば、正田美智子さまこと、現・皇后陛下だろう。昭和33(1958)年、皇太子殿下(現・天皇陛下)との婚約を発表。「ミッチーブーム」が巻き起こり、その清楚なファッションは世の女性の憧れの的となった。この世相を受け、はとバスガイドの制服にも、濃紺でオーソドックスなデザインや白い襟で清楚さを出したものなどが取り入れられていく。

歴代の制服変遷(3) ~昭和40・50年代~ 

森英恵氏デザインによる色彩を取り入れた制服へ転換

昭和43(1968)年、森英恵デザインの制服の発表会。黒いスーツの女性が森英恵氏

 高度経済成長期の真っ只中にあった昭和40年代の日本。昭和39(1964)年の東京オリンピックを機に、海外の動向にも人々の目がいくようになる。

 昭和41(1966)年にビートルズが来日。モッズファッションやマッシュルームカットも上陸した。翌42(1967)年には、モデルのツイッギーが来日。日本でもミニスカートが大流行する。こうした現象に共振し、はとバスガイドの制服もビビッドな色合い、活動的なデザインが取り入れられていく。

 高度経済成長の影響は様々な分野で見られたが、ファッション業界も例外ではなかった。急成長するアパレルメーカーは次々と流行を打ち出し、それを紹介する「an・an」(平凡出版、現マガジンハウス)が昭和45(1970)年に、翌年には「non-no」(集英社)などの雑誌も次々と創刊。

 ファッションデザイナーという職業にも注目が集まるようになる。はとバスではそれより2年早くファッションデザイナーとして頭角を現し、日本航空の客室乗務員の制服デザインでも注目を集めていた森英恵氏にデザインを依頼。ここでも先見の明を発揮していたといえよう。

 昭和43(1968)年、ミニ丈のワンピースとジャケットのアンサンブルの制服を採用。ユニフォーム発表会には森英恵氏が登場し制服デザインの意図を説明、大きな話題となった。その後も森英恵氏とのコラボは1977年まで続き、バスガイドの制服に対する世の中の認識を一新することなる。

歴代の制服変遷(4) ~昭和50・60年代~ 

大胆なデザインやはとバス・カラーの黄色も登場

はとバスのイメージカラーの黄色に黒ベルトの制服が昭和55(1980)年から登場(昭和50年代末に撮影)

 昭和40年代末からのオイルショックで急速な景気減速の局面に入った日本。トイレットペーパーや洗剤の買い占めなど、世の中全体に重苦しい雰囲気が漂う。しかし、はとバスでは様々な分野で攻めの姿勢を崩さなかった。

 制服においても同様で、時代の暗雲を払拭するかのように、人目をひく大胆なデザイン、カラーの制服を数多く採用している。ニュートラ・ハマトラファッションで人気のあったパンタロンを取り入れたり、クラシカルな印象を醸し出せるケープを付けたり、はとバスのイメージカラーである黄色を全面的に用いるなど、新制服発表のたびに新鮮な驚きを世に与えた。

 そして、不況を脱し、のちにバブルと呼ばれる昭和60年代に突入。ディスコ通いの女性の制服のようになったボディコン・ワンレン、カジュアルファッションの渋カジなど、今も多くの人の記憶に残る時代へと突入していく。

二次試験問題に戦中の楽曲の歌唱が出題!?

~元ガイド、隅田(旧姓・由井)美枝子氏が語る4年半~

(左)昭和35(1960)年、入社当時の美枝子氏 (右)待望の採用通知。何度も文面を読み返したという

 ここでは昭和30年代に、はとバスガイドとして青春時代を過ごした1人のOGを紹介する。彼女の名前は隅田(旧姓・由井)美枝子氏。昭和35(1960)年に入社し、昭和39(1964)年の結婚による退社まで4年半勤務した。大切に保管されてきた書類や資料を拝見しながら、彼女がガイドとして働いた時代を振り返ってみよう。

 昭和16(1941)年、東京・蒲田生まれ、杉並育ちの由井美枝子氏。高校時代は放送部に所属し、コンテストでの入賞も経験。その経験が生かせると思い、はとバスガイドを目指す。昭和34(1959)年10月、入社試験に臨んだ美枝子氏は、第一次、第二次、そして最終面接へと順調にコマを進める。

 試験内容で印象的だったのは二次試験の、"歌と朗読での表現"という課題。テーマはなんと戦中の昭和17(1942)年に発表されヒットした、小畑実の『湯島の白梅』。「歌そのものは知っていましたが、高校生がそんな昔の歌をいきなり歌わされられるなんてね……。どう表現すればいいか、戸惑いました」と苦笑する。とはいえ、無事に試験をパス。

 昭和35(1960)年2月、彼女は晴れてガイドに採用された。今も大切に保存する待望の採用通知。「元気で出社する日を楽しみに待つて居ります」(原文ママ)の文章を何度も読み返したという。

全員が入寮で挑む、1ヶ月におよぶ伝統的教習とは?

美枝子氏手描きのコース地図。バスのコースを下から上へと進む一本道で描き、左右に目印となる山や橋、そして話題を書き込み覚えるようにした

 はとバスガイドとして、実際にバスに乗務するために通らなければならない関門が教習だ。1ヶ月に及んだという教習は「言葉遣いはもちろん、発音ひとつひとつまで細かく直されました。それから分厚い教本を暗記するのが大変で……」。一緒に入社した同期のガイドたちとともに励まし合い頑張った美枝子氏。厳しい教習を乗り越えられたのは、同期の存在があったからという。

 この厳しい教習と仲間との励まし合いは、はとバスの伝統として、今も脈々と受け継がれている。現在の教習の一端を紹介すると……まずは1週間程度の机上研修。お辞儀の仕方、口の開き方や発声練習、敬語の使い方などを学ぶ。その間は毎日宿題が出され、分厚い教本の中からその日、決められたページを覚えることが課される。

 そして次は3週間程度の車上研修。机上で覚えた内容を、現場で使えるようにする研修だ。実際にバスに乗り、東京の中心部を回りながら教本は一切見ずにガイドをする。そして迎える最終テスト。合格すれば、晴れてはとバスガイドとして乗務に就くことができる。

 単に厳しい教習を課すのでなく、共同生活で助け合いを学ばせ、同期としての結束を高める。そんなところにも、はとバスガイドの優秀さの秘密があるようだ。

修学旅行で生まれた絆から一時は20人以上と文通も

昭和36(1961)年8月、品川駅で修学旅行生を見送る。私服に着替える時間がないと、制服のまま駆けつけたことも

 美枝子氏は教習後、都内の定期観光コースに1年間勤務。その後、貸切バスの担当に。「関東を中心に各地へ行きました。よく行ったのは伊豆と千葉ですね」。当時の房総半島は悪路続きで、"イチョウ返し道路"の異名も。もちろん植物のイチョウではなく、胃と腸がひっくり返るという意味だと、笑いながら語ってくれた。一方、東京都内はオリンピックに向け、各地で大工事が進行中。「高速道路がまだ珍しくて、新橋に数km開通した首都高速道路を走るだけで、お客様は大喜び」だったという。

 当時、美枝子氏が案内した中には、修学旅行生も多かった。戦後のベビーブーム世代が中高生になる時期で、ひとつの学校だけでバスを4、 5台も連ねることが珍しくなかった。東京を含め関東各地を巡る3~5日間の修学旅行で、その間はずっと一緒に行動。「私も毎回修学旅行をしている気分でしたね。時間があれば必ず東京駅や品川駅まで見送りに行きました」と懐かしげに語る。

 地元へ戻った生徒たちから写真が送られてくることもたびたびで、それをきっかけに文通が始まることも多く、一時は20人以上とやりとりしたという。もちろん、当時の手紙や写真も大事に保管している美枝子氏。バスの車内や見送りのホーム写真からは、仕事を越えた心のふれあいが感じられる。

退職後半世紀を超えて続く、苦楽を共にした同期との交流

平成16(2004)年、平和島にある本社で行われたはとバス55周年式典。かつての同僚や後輩たちと楽しい時間を共有

 昭和39(1964)年7月、美枝子氏は退職し、その後結婚。お相手は、はとバスの整備士だった同僚が会社の親睦旅行に連れてきた、社外の板金工だった。「これも、はとバスが縁といえば、縁なのでしょうね」と微笑む。退社後も、はとバス勤務時代の仲間との交流は欠かさず、親睦を深めてきた美枝子氏。平成16(2004)年1月の、はとバス55周年式典ではOGガイドの1人として招待を受け、元気に出席。様々な年代のOG、現役ガイドとも言葉をかわした。

 "わずか4年半、されど4年半"の、はとバスガイド時代。退職から半世紀以上の時が流れたが、美枝子氏は当時の書類や写真を数冊のアルバムに納めて、今日まで大切に保管してきた。はとバス時代の思い出は、その後の彼女を支える宝物であり、大いなる誇りだったことを物語っている。

歴史を読み解く雑学(1) 

バスガイドといえば男性? 大正末期に活躍した大卒男性ガイド

 バスガイドといえば、現在はもっぱら女性の職業。ところが、戦前には男性のバスガイドが存在した。大正14(1925)年12月15日、東京で初めて定期遊覧乗合バスの運行を開始したのは、はとバスの前身・東京乗合自動車が所管する「東京遊覧乗合自動車」だが、その時、新聞広告に「各車毎に案内人を附し丁寧に説明致します」との一文を掲載した。この案内人こそ、何を隠そう男性ガイドのことだったのだ。

 記念すべき1期生として、早稲田、明治、中央などの大学の新卒男子約10名が採用された。その理由は、当時はガイドのマニュアルなどなく、説明台本の作成から外国人向け案内の英訳まで、すべてを案内人が自らこなす必要性。つまり、基礎的な学力や知識が必須だったのだ。給料は、基本給60円(現在の20万円に相当)にプラス20円前後の諸手当がついた。大卒の初任給が50~60円の頃だから、かなりの高給取りだったといえる。

 だが、季節や気候により収益が大きく変動する観光業の構造的な問題、昭和2(1927)年の金融恐慌をきっかけとする不況もあいまって、人件費の節減が要請された。そこで昭和3(1928)年からは、高等女学校卒の女性ガイド(当時は婦人案内係)を採用。これにより男性ガイドは舞台から姿を消すこととなった。

歴史を読み解く雑学(2) 

結婚退職が主流の昭和は、はとバスも人材難だった?

ガイドの控室にて。今も乗務の際にはメイクをするのがルール(昭和35<1960>年頃)

 いつの時代もスタッフの確保は、会社にとって大きな課題。昭和30年代のはとバスも例外ではなかった。なにしろほとんどのガイドが入社3年以内で退職してしまうのだ。はとバス共済組合の機関紙『はと』(昭和39<1964>年2月号)がガイドに実施したアンケートの結果を見ても、「何年くらい勤めるか」という問いに、87人中52人が「3年以内」と答えている。とはいえこれはなにもはとバスだけの特殊な事情ではなく、その頃は学校を卒業し社会勉強として数年だけ働き、すぐに結婚する女性が大半の時代。世論も女性は結婚後に仕事を辞め、家庭に入るのをよしとしていた頃である。

 当時を知る元社員によると「はとバスは社会的信用が高いということで、娘を花嫁修行に行かせるつもりで就職させる親も多かった」と語る。とはいえ、ガイドは本来、熟練を要するプロフェッショナルな仕事。経験を積み仕事を覚えたころに辞められては、本当の意味でのプロは育たない。

 はとバスでは、労働時間や賃金の見直し、福利厚生の充実など、様々な方策を講じ、離職率を下げる努力を継続。昭和60(1985)年、男女雇用均等法が制定され、ようやく女性の社会進出が世の中に認められ始め、結婚後も退職せず乗務を続けるガイドが増えていった。

 平成29(2017)年3月現在、在職10年以上のガイドが40人以上おり、結婚後も仕事を続けているガイドも多い。時代の流れと共に働き方が多様化する昨今、今後は勤務経験を活かしたガイドの活躍の場や選択肢も広がっていくことだろう。

歴史を読み解く雑学(3) 

切磋琢磨の場であり、心の巣となるガイド社員寮

新入社員全員が入寮する「ガイド社員寮 清美寮」

 前頁でも触れたが、新人ガイドは入社すると、全員が親元を離れ3ヶ月間はガイド寮で共同生活を送ることが義務づけられている。彼女たちが入寮するのは「ガイド社員寮 清美寮」。昭和39(1964)年に建てられ、今までに約2,500人が巣立っていった伝統あるはとバスガイド専用の社員寮だ。

 高校卒業後、3月中旬に仮入社をして入寮すると早々に教習の日々に突入する。発声練習、姿勢、言葉遣いなどの基礎を学び、観光案内の内容が書かれた教本をまるまる暗記。教本は都内のコースだけでも3cmもの厚さになるというが、若く柔軟な彼女たちの頭脳は、真綿が水を吸うように知識を習得していく。

 その後は実際にバスに乗り、教本を持たずの車上研修を約1ヶ月に渡り実施。4月下旬のデビューを目指すこととなる。その間、日中の研修が終わり寮に戻ってからも、各自復習は欠かさず繰り返す。同期で励まし合い、切磋琢磨する社員寮は、ガイドの小鳩たちが1人しっかりと飛び立つまでの、温かな巣の役目をはたしているといえるだろう。

歴史を読み解く雑学(4) 

コンクールでは毎回上位入賞! はとバスガイドの実力

「第6回全国バスガイドコンクール」で2位に入賞し、表彰を受ける杉山美保子氏

 終戦直後の混乱期を脱し、バス事業者の間にも明るさが戻りつつあった昭和26(1951)年。ガイドの接客サービス向上と運転の安全確保を目的に、「第1回全国観光バス案内コンクール」が開催された。3月8日、会場となった日比谷公会堂には、札幌から福岡まで30社、33名のガイドが集結、日頃の成果を競い合った。審査項目は説明内容、地方色、声色、抑揚、表現技術に容姿態度、品位、服装等と多岐に渡り、はとバス代表の加藤和子氏は見事2位に入賞。はとバスのガイド教育の優秀さを全国へと知らしめた。 

 このコンクールは審査員にラジオをはじめ多方面で活躍した徳川夢声、映画監督の山本嘉次郎らを招くなど世間の耳目を集め、第2回の京都大会からは名称を端的に「全国バスガイドコンクール」に変更。開催地は地元愛から審査員の得点が得やすいことを懸念し、名古屋、大阪など毎回違う都市に設定した。回を追うごとに評判が立ち、当日会場に押しかける人の波が整理できず、審査員の入り遅延までも発生。昭和35(1960)年まで10回にわたり開催された。

 はとバスでは、その後も第3回大会で2位(江花百合子氏)、第4回大会では2位(田中賢子氏)と3位(奥山喜美子氏)。第6回大会も2位(杉山美保子氏)と、はとバス教育で培った能力を彼女たちは遺憾なく発揮、大会入賞の常連となる。中でも第3回大会で惜しくも2位になった江花氏は、その時の対話調によるガイドが多くの同業者に感銘を与え、バスガイドのひとつの型を作り出したとまで高評価を得た。後年、彼女は指導者としてはとバスガイドの後進を育成。その技術と精神は、はとバスガイドのDNAに深く刻まれ、今も伝統となり引き継がれている。
文:今田 壮
編集協力:株式会社P.M.A.トライアングル
【ご注意】
※本文中に記載の固有名詞や言い回し表現は当時のものを使っています。現代では自粛すべき表現や一般的ではない言い回しなども含まれております。あらかじめご了承ください。
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