2017.01.31
昭和34(1959)年夏、都電とはとバスが並走して勝どき橋を渡るワンカット
もはや『戦後』ではない──経済白書に記載されたフレーズが流行語となった昭和30年代。高度経済成長期と呼ばれる時代を迎え、東京には次々と名所が誕生するなど華やかな話題に満ち、人々を魅了する流行が続々と現れた。
陸からバスを解き放てないだろうか? 歌謡曲ブームを新たなPRに繋げられないか?
業績伸長への絶好のチャンスを前に、はとバスでも従来の発想にとらわれない、さまざまなアイデアが生まれ、実現していくこととなる。
急増する観光客に応え、新型バスを多数導入。皇居にて(昭和31<1956>年)
昭和30(1955)年、日本は世界第1位の輸出船受注量国になるなど、高度経済成長期のとば口に立っていた。人々は経済成長に牽引された社会の発展が、単なる予感でなく確固とした未来であることに確信を抱きはじめていた。道路をはじめとした社会インフラの整備にも拍車がかかり、交通・観光事業に参入を試みる企業も急増。競争の時代へ突入していく。
人々が衣食住に追われた戦後まもない昭和20年代。映画やラジオ、雑誌が主だった娯楽・レクリエーションだった。だが、昭和30年代初頭から好景気に入り、日本中に観光旅行ブームが巻き起こる。
ブームの牽引役となったのが、日本政府が策定した「観光事業振興5ヵ年計画」(『観光便覧』昭和38年版 国民生活研究所より)。昭和32(1957)年を初年度とし、5年間で訪日外国人客を10万人から30万人へ、消費額4,500万ドルを1億2,000万ドルへ、国民の旅行については3.8億人・2,300億円から4.8億人・2,800億円へと上昇させるというものだった。
そんな折の昭和31(1956)年2月28日、岩手県知事や東京都副知事を歴任した春 彦一氏が新日本観光株式会社の第3代社長に就任。春氏は、在任中の4年間、交通・観光事業へ参入しようとする競願各社をけん制しながら、定期観光バス、貸切バス、ハイヤーの3部門の相互発展を目指し、相乗効果を図ることに尽力した。
昭和33(1958)年、日本橋人形町付近上空
昭和30年代初期に観光ブームの波に乗り、はとバスは定期観光コースの充実に取り組んでいく。その一方で昭和33(1958)年7月、東京都観光汽船株式会社、日本遊覧航空株式会社の協力を得て、「陸海空立体Lコース」をスタートさせた。
東京を陸、海、空から楽しむという趣向で、新宿駅東口を9時30分に出発。皇居前-浅草観音(浅草寺)-外苑絵画館(聖徳記念絵画館)-羽田空港(東京国際空港)<セスナ機による遊覧飛行>-平和島<遊覧船へ乗船>-浜離宮<下船>を約8時間で巡るというコースで、料金は1,500円(現在の30,000円に相当)に設定された。
海外旅行はもちろん、国内の移動に飛行機を利用することも稀な時代。短時間といえども"空を飛ぶ"という憧れが実現できるとあって、マスコミでも大々的に取り上げられ、東京観光への興味をより一層高めることになる。
昭和30年代の羽田空港(東京国際空港)
東京の空の玄関口・羽田空港もまた、この時代の東京名所のひとつだった。戦後、米軍管理下に置かれていた羽田空港(当時は東京飛行場)の地上施設の一部が日本に返還されたのは、昭和27(1952)年7月1日(『官報資料版』1958年7月1日第9455号付録より)。名称を東京国際空港とし、新たな旅客ターミナルビルが、昭和30(1955)年5月20日にオープン。はとバスでは、この3ヶ月後の8月に早くも羽田空港を組み込んだ「社会科Dコース」の販売を開始する。常に、東京の先端をお客さまに提供する姿勢は、当時から現代へと脈々と受け継がれている。
ちなみに「国際空港」が誕生したといっても、当時、旅券(パスポート)を発行されていたのはビジネス取引や視察、留学を目的とする場合のみで、観光目的では出国できなかった。観光で自由に海外へ行けるようになるのは、昭和39(1964)年の海外渡航自由化まで待たねばならない。
実際には行けないが、離発着する各国の航空機を目のあたりにし、海の向こうの異国へ思いを馳せる……。そんな庶民のささやかな楽しみが得られる場所として、羽田空港が、東京で是非訪れてみたい名所として人気を博した。
以後、羽田空港は東京の定番観光スポットとして、多くのコースに組み込まれてゆく。昭和30年代半ばには、乗車記念プレゼントの絵葉書として浅草寺の雷門、皇居の二重橋、銀座の数寄屋橋と並んで印刷されるなど、海外への憧れを掻き立てる場所として、独自の存在感を放っていた。