はとバス昭和物語 第1回 戦後復興の中で生まれた新しい観光スタイル(昭和24~29年)

旅読人コラム2016.12.20

はとバス昭和物語 第1回 戦後復興の中で生まれた新しい観光スタイル

フロント部にエンジンを乗せたボンネットバス(昭和20年代)

連載「はとバス昭和物語」 ~車窓から見た〝あの頃〟の東京~

 焦土と化した東京、そして日本を「観光で復興させる」と夢見た男がいた。戦争のない生活があってこそ、観光産業は成立する。観光とは、いわば平和の象徴なのだ。これこそ自分の生涯をかけて挑戦しがいのあるライフワークである──。
 その一途な思いを胸に一歩を踏み出したのが、はとバスの前身である新日本観光設立の立役者、山本龍男氏。東京地下鉄道出身で、東京都交通局に勤務経験を持つ山本氏は、その人脈と知識をフル活用し、資金調達、免許申請、車両の払い下げと、各方面へ東奔西走することになる。
 平和のシンボル〝鳩〟をトレードマークに掲げた、「定期観光バス」という新しいスタイルでの挑戦が始まった。

焦土と化した東京の街に、遊覧乗合バスを取り戻せ!

「成田山新勝寺」ツアー

はとバス(旧・新日本観光株式会社)初の団体貸切バス「成田山新勝寺」ツアーパンフレット

 昭和24(1949)年の元日、一台のボンネットバスが団体客を乗せて都内を出発した。行き先は千葉県の成田山新勝寺。はとバス(当時は新日本観光株式会社)の記念すべきスタートとなった、初詣のための団体貸切バスだ。
 新日本観光株式会社が中古車両6台と営業権を手に入れたのは、初運行の前年となる昭和23(1948)年の8月14日。終戦から丸3年がたち、徐々に復興しつつあったとはいえ、被占領国として日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の統治下に置かれ、米や麦、野菜など大半の食糧はいまだ配給制。イモ類、砂糖、とうもろこし粉など代用品さえ間に合わず遅配欠配が続き、物資不足は深刻な状況と化していた。
 そこにきて明治38(1905)年以来の凶作が加わったこともあり、東京の新宿、新橋、有楽町、上野、渋谷などの駅前には闇市が出現。人々は飢えや困窮から着物や宝石、時計など、金銭に変えられるものを次々と手放し、食糧の買い出しや生活用品の確保に当てるといった、生きるだけで精一杯の時代だった。当時の朝日新聞が「国民の体重はおしなべて、平時の1割方減った。これは健康な者が水だけ飲んで、10日間寝ていた状態と全く同じである」と報じたほど、ひっ迫した状況だとわかる。
 燃料不足も深刻で、せっかく入手した中古バスも燃料が手に入らず、そのままでは運行ができない。創業当時、整備士たちの初仕事は、ガソリンエンジンのバスをプロパンガスや松の根からとった松根油で走れるように改造することだった。またディーゼル車は、東京都交通局払い下げの廃油を利用することも度々あったという。このように、戦争は終わったとはいっても娯楽はおろか、生活もままならない状況であった。果たして観光バスの需要あるのか? 創業者・山本龍男氏は大いなる不安を抱きながらも、これからの日本は観光事業で立っていかなければならないと決意し、東京都庁の元次長・町村金五氏を初代社長に迎え、観光バス事業へと共に邁進する。

日帰りバス運行が決定! 初の女性ガイド誕生

都内見学観光バス案内書

都内見学観光バス(東京定期観光バス)運行開始当初の案内書

 元日の営業開始から3ヶ月後の昭和24(1949)年3月19日。早くも、東京を遊覧する日帰りバス運行に乗り出した。これは3月1日付で東京道路運送監理事務所(現在の東京運輸支局)から、一般貸切自動車運送事業再開届を許可取得できたことで実現の運びとなる。
 当初、外回り線①東京駅前発、②新宿駅前発、内回り線①上野駅前発、②新橋駅前発の4系統を計画したが、世相の不安定さから時期尚早とこれを断念。燃料不足下であることを踏まえ、上野を拠点とし、都内を循環する1系統半日コースの「都内半日Aコース」を企画。無事認可を得て、実現に漕ぎ着けたのである。
 当日、上野駅正面口のバス乗り場には、社員の不安をよそに多くの人々が詰めかけた。創業時に導入された定員35人乗りのガソリンバス「富士」号に乗客が乗り込む。運転者は小座間正義氏、ガイドは藤江静子氏。

夜コースガイドの制服

夜コースガイドの制服。<左>さわやかなライトブルーの夏服、<右>鮮やかなオレンジの冬服(昭和26<1951>年)

 第1期となる女子ガイドは同年3月14日に5名を採用。募集条件は高等女学校卒業、もしくは同程度の資格を有する18歳以上23歳未満。面接試験の上、容姿30点、性格10点、節度15点、知力15点、声調度20点、注意力10点、計100点の評価で審査し選出された。
 午前9時、全役員と社員に見送られながら、記念すべき第1号車は定員35人乗りのところ視察関係者も含め、ほぼ満員で発車した。
「都内半日Aコース」は、上野駅正面口-上野公園-東京大学-御茶ノ水-皇居前-国会議事堂-明治神宮-赤坂離宮(現在の迎賓館赤坂離宮)-半蔵門-靖國神社-神保町-帝国ホテル-新橋駅-築地-歌舞伎座-日本橋-両国橋-震災記念堂(現在の東京都慰霊堂)-浅草寺-国際劇場前-上野駅の、約4時間で巡る日帰りバスだった。上野公園、皇居前、赤坂離宮、浅草観音(浅草寺)では途中下車し観光を楽しむこともできた。9時と13時の1日2便、料金は大人250円。ちなみに当時の山手線初乗り料金が5円だから、全国から東京観光に訪れる人にとって、まさに夢のコースだったことだろう。最初のうちは、乗客が2、3人しかいないときもあったが決して運休することなく、7月には東京駅と新宿駅からも運行を開始することになる。
 キャッチフレーズは、「お一人でも乗れる東京定期観光バス」。トレードマークの鳩も、運行開始にあわせて登場。現在、多くの人がイメージする「はとバス」の原型は、ここから始まった、といってよいだろう。
 荒廃から復興しつつある昭和の東京を、スピードと平和のシンボル「鳩」のマークをつけたバスが疾走する姿こそ、娯楽を求めていた日本人にとって明日への希望そのものだったに違いない。それを裏づけるように利用客数もうなぎ上りでアップ。営業第1期(昭和23<1948>年8月14日~昭和24<1949>年3月31日)の302万3,000円から第2期(昭和24年4月1日~10月31日)の1,642万4,000円へと急増した。

  • 次のページ:「鳩マーク」誕生の裏にある、意外な逸話とは?

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今田 壮

プロフィール今田 壮ライター&編集&ときどきカメラマン

■1975年 広島県生まれ。東洋大学大学院修士課程中退(哲学専攻)。
■旅、歴史、サブカルチャーを得意とする、編集プロダクション・風来堂代表。
■温泉、山城、猫、路地好き。
■著書に『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫/今泉慎一名義)。
本連載のほか、『秘境路線バスをゆく』シリーズ(イカロス出版)、『全国ローカル路線バス』(じっぴコンパクト新書)など、最近はバスにまつわる本の編集に多数関わっている。

【はとバス昭和物語/編集協力】株式会社P.M.A.トライアングル