はとバス昭和物語  第4回 ポスト・オリンピックの難局に攻めの姿勢を貫く(昭和40~44年)

旅読人コラム2017.04.25

はとバス昭和物語(昭和40~44年)

昭和42(1967)年9月、国鉄が発売した総合旅行商品「エック」(エコノミークーポンの意味)のひとつ「東京エック」に参画。都内の観光案内をはとバスが担当し、東京観光の点で大いに寄与、かつ恩恵を受けた

連載「はとバス昭和物語」 ~車窓から見た〝あの頃〟の東京~

 昭和39(1964)年10月に開催された、東京オリンピックの観客輸送とオリンピック定期観光コースで、東京を代表するバス会社であることを国内外に知らしめたはとバス。
 熱戦の興奮冷めやらないオリンピック閉幕後の1年は、「オリンピック施設めぐりコース」が予想外の人気を呼び業績を押し上げた。しかし喜びも束の間、折からの好況により富裕層のごく一部で乗られていた高級輸入車から、国産大衆車の量産体制が確立したことで車社会化へ進展。さらに東海道新幹線利用による日帰り旅行の広域化や増加などから、バス旅行需要は停滞を余儀なくされる。
 この苦難の時代にあって、はとバスが貫いたのが“攻めの経営”だった。

貸切バスに大打撃! “昭和40年不況”下の観光バス事業

はとバス定期観光

昭和40(1965)年、銀座・三越デパートに停車中の定期観光バス

 昭和39(1964)年、日本の悲願であり、戦後最大のイベントとなった東京オリンピックが10月24日に閉幕すると、翌年の10月にかけて日本経済は、“昭和40年不況”に直面する。オリンピック開幕1年前の倒産件数が1,738件に対し、39年には4,212件、40(1965)年は6,141件へと急増(東京商工リサーチ「全国企業倒産状況倒産件数」より)。観光需要そのものは不況下でもなお上昇過程にあったが、観光バス業界は東京オリンピックへ向けての国内外の観光客輸送体制の強化など、昭和30年代後半の設備投資のあおりを受け、経営難に陥る会社が続出。なかでも貸切バスの分野は深刻だった。
 業者の急増とそれにともなう車両の増加で、昭和35(1960)年からオリンピック開催の昭和39(1964)年までの4年間で約5,600万人も増加した輸送人員が、ポスト・オリンピックの昭和40(1965)年度には前年比約2,300万人減の大幅な減少となったのだ。はとバスにおいても貸切バス部門は、前年比で輸送人員が11.8%減、収入(関連事業収入を除く)が3.8%減と大きな打撃を受けた。

熱戦の舞台をめぐるコースが大ヒット

はとバス

オリンピック閉幕直後の大ヒット商品となったのが「オリンピック施設めぐりコース」。写真のはとバスの後ろは代々木競技場

 一方で、オリンピック後も続く観光ブームの恩恵を受け、定期観光バス部門では昭和40(1965)年から42(1967)年にかけて爆発的な需要増を見る。なかでもはとバスの業績の押し上げに貢献したのが、「オリンピック施設めぐりコース」で、昭和41(1966)年3月27日には1日で9,588人の輸送人員を記録するなど、予想外の大ヒットとなる。
 はとバスではオリンピック開催年の昭和39(1964)7月から12月にかけ、「オリンピック記念コース」を定期観光バスコースに特別設定して好評を博し、翌40(1965)年1月にも1ヶ月限定の、内容を充実させた新たな「オリンピック記念コース」を設定。デラックスバスを使用したこともあり、その人気は衰えを見せなかった。
 そこで、はとバスでは、改めて「オリンピック施設めぐり半日コース」「オリンピック施設めぐり1日コース」を設定し、昭和40(1965)年3月から運行を開始する。相次ぐ他社の参入もあって、当時の新聞に『静かなブーム、オリンピック施設めぐり、東京人に大人気』『武道館背に記念撮影、五輪記念コース』といった見出しが踊るほどの活況を呈し、同年1月から12月の1年間に20万3,622人もの利用があった。なお、オリンピック関連のコースは惜しまれつつも1日コースが昭和41(1966)年7月、半日コースが昭和43(1968)年に十分にその任を果たし、廃止となった。

“いざなぎ景気”に突入するも、強敵が出現!

はとバスのオープンバス

マイカーが増えた東京の街を行く、豪華サロン風オープンバス

 昭和40(1965)年は、貸切バスの不振を、定期観光バスがカバー。貸切と定観、2つの柱を持つはとバスならではの強みが発揮される結果となった。しかし、世の中の動きが加速されるなか、はとバスといえど安閑としている訳にはいかなかった。“昭和40年不況”は同年10月に底をつき、日本経済は昭和45(1970)年7月までの4年8ヶ月間にわたる「いざなぎ景気」へと突入していく。これは当時の首相・佐藤栄作の政権下、日本政府が初めて建設国債を発行(昭和41<1966>年)したことに端を発する。それまで不況時に行なっていた金融政策では改善せず財政主導の景気対策とし、国債を発行して公共投資を実行。すると戦後最長の景気拡張になるほど好景気となり、国民総生産(GNP)が昭和43(1968)年にはアメリカに次いで第2位を記録。その後も成長率10%以上が長期的に続くことになった。
 これにより国民所得が大きく増え、高度経済成長期時代を謳歌しようと人々の観光旅行熱はますます高まり、昭和40年代前半は昭和30年代を上回る観光ブームとなる。観光事業者にとっては強烈な追い風となったが、好事魔多し。国民所得および個人消費支出の伸びとシンクロするかのように、乗用車の低価格化・大衆化が進み、世はマイカー時代を迎える。道路網の整備や高速道路の開通などインフラも充実。その結果、車社会化の急速な台頭により、乗用車を利用する観光客が飛躍的に増加したのである。

夜の定期観光コースが苦杯を嘗めた東海道新幹線の台頭

東海道新幹線

昭和39(1964)年10月開業の東海道新幹線。東海・関西エリアから東京への旅の日程を一変させた

 マイカーの普及は、旅客輸送の変化にも端的に現れた。昭和30(1955)年当時、国鉄は旅客総輸送量の55%をまかない、民間鉄道を含めると鉄道のシェアは82.1%にもおよんでいたが、昭和44(1969)年には輸送人員が42.2%、さらに昭和54(1979)年には34.7%と、その比重を低下させていった(国土交通省「陸運統計要覧」より)。
 一方バス業界にも同じ現象が襲いかかる。なかでも打撃を受けたのが路線バスで、その理由は都市部での交通渋滞が引き起こした相次ぐ運行速度低下により、信頼性を奪われたことに起因していた。貸切バスにおいても路線バスほど顕著ではないものの、伸びしろは期待できず、折からの観光ブームにも関わらず、観光バス業界は停滞を続けることになる。
 貸切バスと質的に異なる定期観光バス事業を有するはとバスだが、さらなる強敵が出現する。それは昭和39(1964)年10月1日に開通した東海道新幹線である。新幹線が東京へ日帰りで出かけられるエリアを広域化したため、上京時には東京で1泊するという習慣が薄れ、夜行列車の利用も減少。運行本数も大幅に削減された。これにより、夜行列車までの待ち時間として東京の夜を楽しむ定番だった、はとバスの夜コースの需要に落ち込みが現れる事態となったのだ。

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今田 壮

プロフィール今田 壮ライター&編集&ときどきカメラマン

■1975年 広島県生まれ。東洋大学大学院修士課程中退(哲学専攻)。
■旅、歴史、サブカルチャーを得意とする、編集プロダクション・風来堂代表。
■温泉、山城、猫、路地好き。
■著書に『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫/今泉慎一名義)。
本連載のほか、『秘境路線バスをゆく』シリーズ(イカロス出版)、『全国ローカル路線バス』(じっぴコンパクト新書)など、最近はバスにまつわる本の編集に多数関わっている。

【はとバス昭和物語/編集協力】株式会社P.M.A.トライアングル