勝谷誠彦旅コラム 第7回 紀行家、深い森の中のアンコール遺跡に佇む

旅読人コラム2017.02.21

勝谷誠彦旅コラム 第7回 紀行家、深い森の中のアンコール遺跡に佇む

カンボジアのタ・プローム遺跡。タ・プロームの方が、アンコールワットの彫刻よりも精緻に感じられる。

勝谷誠彦旅コラム 第7回 紀行家、深い森の中のアンコール遺跡に佇む

アンコールワット

裏からみたアンコールワット。
人が写り込まない、撮影の「穴場」。私の知る、秘密の場所である。

 アンコールワットはいつものように私の前に姿をあらわした。それはそうであろう。悠遠の歴史をそのままで佇んできたのだから、たかだか20年ほどの歳月でかわるわけもないのである。だが、とりまく環境は大きく違っていた。人々の姿におおわれている。まるで巨象に群がる蟻のような人々に。
そう。最初に私がこの巨大な荘厳と向かい合ったのは20年以上前のことだったのだ。カンボジアは内戦が終結したばかりであって、しかしそれは政治的なことで、まだ散発的な戦いは続いていた。アンコールワットにはポルポト派の残党が立てこもっているという噂もあり、近づくにはよほど注意が必要だった。地雷の撤去はまだほとんど手つかずで、小用を足しに樹々の間に入るなど、とてつもなく危険なことであった。遺跡にはまったく人影がなかった。だから私は「誰もいないアンコールワット」という希有で貴重な写真を撮ることができた。

パブストリート

シェムリアップの繁華街「パブストリート」。
昔からは信じられない喧騒の巷。

 今回目にしたのは、どういうアングルでも人が写り込んでしまう光景だった。参道は観光客で埋めつくされている。アンコール遺跡群の観光拠点、シェムリアップの市街地も劇的な変容をとげていた。20年前は屋台でビールを贖うのが辛うじてであったのが、その名もパブストリートという繁華街ができ、賑やかな音楽が流れ、電飾がまたたいている。
 それらはしかし、逆に私に、悠遠なるものと諸行無常を教えてくれたのだ。ひとの営みがどう変わろうと、あまたの塔頭にはあずかり知らぬことなのだ。遺跡はすべて、近代になって「発見」されるまで森の中に埋もれていた。「発見」とはずいぶんと傲慢な言葉であって、石で作られたさまざまな造形にとっては、いささかも与り知らぬことだ。ただ時は流れ、いっとき人がかかわって作られたそれは、忘れられ、樹々に護られて時を過ごしてきた。

タ・プローム

タ・プローム遺跡。溶樹の根は遺跡をもうほぼ覆い隠している。

 護られて?いや、それもまた異なるのかも知れない。どうしても巨大なアンコールワットに人々の目は向かいがちだが、私はタ・プロームなどのもっと小ぶりな、しかし造型的にはアンコールワットを凌駕する建造物が好きなのだ。今回もそれらを巡ってみた。行き着くには森の中を歩かなくてはならない。アンコールワットとことなり、時に人の姿は絶える。さまざまな鳥たちの声が頭上から降ってくる。ひとがかかわったよりもはるかに長く、遺跡はかかる空間の中にいたのであると感じる。
 アンコールワットは毅然として屹立しているが、タ・プロームなどの小さな遺跡群は、森そのものに呑み込まれつつある。ラテライトなどで構築された建物のそこここを溶樹(スポアン)の根がしめつけている。石の間に入り込んだ根はうねり、縛り、複雑な動きを見せている。このまま放置するとやがて遺跡は土に還るであろう。だが、これが自然の営みであるならば、いまの人の知恵で遺跡を保護することなく、あるがままに放置しようというのが、カンボジアの人々の考えであると聞いた。
 諸行は無常であり生々流転。昔の人々の考えはこうした風景の中から生まれたのかもしれず、とすれば一群の建造物はまさにその存在をもって私たちのかくのごときことを教えてくれているのかも知れない。そういう意味で、私はアンコールワット本体よりも、タ・プロームなどの森の中の崩れ行く遺跡の方を好む。ぜひとも当地に行ったならば、こちらの方も歩き回って欲しい。樹木は厳しい陽光を遮ってくれるが、かわりに風を通さない。あっという間に汗が吹き出して来る。その中を延々と歩くわけだが、これこそが、いにしえの人々が生きていた環境であると言えなくもない。

野菜炒め

野菜炒め。カンボジアの料理は野菜が多く、油が少ない。
とても健康的だ。

 シェムリアップ市街のあまりの環境の変化に私はやや寂しさを感じたが、それはわがままというものであって、世界中からやって来る旅人にとってはいいことだろう。快適なホテルがたくさんできた。昔は一軒しかなかったのだ。先述のように、賑やかになった繁華街ではさまざまなレストランがある。カンボジア料理はまことに日本人の舌にあうと私は思っている。
 お隣のタイのように辛くはない。むしろわずかに甘いのである。ただし香辛料がついて来るので、それを加えるとアクセントとなる。ぜひとも「チュナン・ダイ」という鍋料理を試して欲しい。小さな土鍋にさまざまな野菜と揚げた鶏肉を入れる。麺を加える。スープはこれも鶏の出汁だ。口にすると驚かれるかも知れない。日本の「うどんすき」に似ているのだ。

シェムリアップ

シェムリアップ。珍しく水のはられた田んぼの畦道で、子どもたち。

 ビールの「アンコール」は軽く爽やかであって、熱帯の空気にまことによくあう。何しろフランスの植民地だったので、ワインも楽しめる。驚くほど安いのは、宗主国だったフランスではなくニューワールドのものを入れていることが多いからだ。このあたり、合理的なカンボジア人たちの気性を感じて愉快である。
 まだまだ経済成長には乗り切れていないカンボジアだが、彼ら彼女らの勤勉さを見ていると、必ず発展すると私は確信した。するとまたアンコールワットを巡る環境も激変するだろう。行くなら今かも知れない。昔と違い、シェムリアップは日本からずいぶんと近くなったので。

勝谷誠彦

著者の紹介勝谷誠彦コラムニスト、写真家、作家

■1960年 兵庫県生まれ。私立灘高校を経て早稲田大学第一文学部文芸専攻卒。
■1985年 文藝春秋社入社。記者として活動。綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人などの国内の事件やフィリピン内乱、若王子事件、カンボジア内戦、湾岸戦争などの国際報道を手がける。1996年退社。
■その後 コラムニストや写真家として活躍。食や旅のエッセイで広く知られる。
■現在 「ダイヤモンドZAi」のコラムを始め、雑誌に多数連載を持ち、TV番組「あさパラ!」(よみうりテレビ)、「カツヤマサヒコSHOW」(サンテレビ)、「ニュース女子」(MXテレビ)などに出演中。 『ディアスポラ』(文藝春秋)、『平壌で朝食を。』(光文社)などの小説のほか、「獺祭 天翔ける日の本の酒」(西日本出版社)、対談「日本一わかりやすいイスラーム講座」(アスコム)等、著書多数。 365日無休で朝10時までに400字詰め原稿用紙で12枚以上を送る有料配信メール 『勝谷誠彦の××な日々。』