はとバス昭和物語  第6回 新時代に応えるコースと車両が次々登場(昭和50~57年)

旅読人コラム2017.07.25

はとバス昭和物語(昭和50~57年)

昭和53(1978)年のガイド入社式。森英恵デザインの夏服姿での記念写真。当時のはとバス「東京ダイナミックBXコース」の訪問地「船の科学館」にて

連載「はとバス昭和物語」 ~車窓から見た〝あの頃〟の東京~

 昭和48(1973)年の石油危機をきっかけに、日本経済は大きな転換期を迎える。以後、高度経済成長期のような経済の飛躍的成長は望めなくなったが、省エネ時代を経て日本製品が飛躍的に国際競争力を高めるなど、着実な回復を見せた。それと同時に消費動向も堅調に推移。国内経済は安定成長へと移行し、国民の消費が景気を牽引する時代を迎える。
 この消費者主導型経済のもと、旅行業界を取り巻く環境も大きく変化。はとバスはその動向に迅速に対応し、多彩な新コースや新型の豪華バスを続々と登場させるなどして新たな需要の取り込みに果敢にチャレンジしていく。

高度経済成長時代の終焉とともに激変した経営環境

電算機の火入れ式

昭和50(1975)年6月30日、電算室に導入された電算機(コンピューター)の火入れ式。始動スイッチを押すのは第5代社長の佐藤登

 昭和30(1955)年頃から20年近く続いた戦後日本の高度経済成長は、昭和48(1973)年秋の石油危機により終焉を迎えた。折からの列島改造ブームによるインフレに原油価格高騰が追い打ちをかけ、狂乱物価といわれるほど物価が上昇。観光バス業界もそのあおりを大きく受け、自家用車の急速な普及による貸切バス輸送人員の伸び悩みにも直面。はとバスは、経営多角化と近代化への改革が待ったなしの状況となっていた。
 とはいえ、はとバスの主力事業である定期観光バス事業は、低価格で手軽な都内観光の手段として業績低迷を跳ね返すだけの力を秘めたものだった。それを開花させるべく、はとバスは経営コストの徹底削減、減量経営の推進にさっそく着手する。
 その過程で大きな力を発揮したのが、当時、電算機と呼ばれたコンピューターである。経理事務の省力化、経営判断に資するデータの迅速かつ的確な把握などへの活用を見込み、昭和49(1974)年3月には、汎用小型電算機(コンピューター)を導入決定。翌50(1975)年6月30日に火入れ式を行った。企業での電算機(コンピューター)活用の黎明期にもかかわらず、経営陣の先見の明がスピード導入へと繋がった。これにより業務効率化の道を開くことに成功した。

山陽新幹線全通に乗じて九州の顧客誘致も積極展開

九州各地を回った宣伝隊一行

昭和50(1975)年6月、新幹線博多開業記念で九州各地を回った、はとバスの宣伝隊一行。長崎での記念写真

 昭和50年代初頭の旅行業界で画期的な出来事のひとつといえば、昭和50(1975)年3月の山陽新幹線、岡山─博多間の開業である。昭和47(1972)年3月の新大阪─岡山間の開業から3年、ついに東京─博多間(1,619km)が約7時間で結ばれることとなった。これを期に、はとバスでは九州一円の顧客を都内観光に誘致するべく、東京タワー(日本電波塔株式会社)と共催で宣伝隊を九州に派遣する。
 しかし当時、国鉄運賃の値上げ、大口団体客の国鉄利用減少などにより地方からの上京客は減り、はとバスの主力コースである「東京半日Aコース」などにも影響が見られていた。そこで、石油危機によるパニックが一段落する時期を見計らい、東京観光へと上京を促す宣伝活動を開始したのである。ガイド8名、バスドライバー2名、東京タワーガイド3名を含む計22名の「新幹線博多開業記念宣伝隊」を結成、6月23~28日の5日間にわたって九州各地で活動を展開。駅頭でのチラシ配布にも注力し、「近くなった東京へ」とアピールした。また同時に、営業所での顧客サービスの強化をはかるべく、東京営業所(東京駅丸の内南口)の乗客待合室の拡張も行った。

バス部門事業強化へ向け、2本部体制を発足

銀座キャピタルホテル 新館

新体制のもと、本館に次いでオープンさせた「銀座キャピタルホテル 新館」<昭和54(1979)年12月>

 厳しい経営環境のもと、効率経営への各種の布石を打った第5代社長の佐藤登が、石油危機対策が一段落した昭和50(1975)年8月に退任。同月、第6代社長に久田富治が就任した。時代は経済低成長という新たなフェーズに入っており、新時代に即応した体制づくりへと邁進する。同年9月には、さっそく従来の3事業本部体制を改変。管理本部を廃止し、関連事業本部をホテル部と改称するとともに、バス事業本部を営業本部と輸送本部の2本部体制としてバス部門事業の強化へと走り出す。
 この新しい体制のもと、早急なテコ入れを必要とされていたのが、創業以来かつてない業績低下に直面していた定期観光バス部門である。輸送人員は、昼コース、夜コース、外国人コースなどを合わせた全体で、昭和39(1964)年度の122万9,722人をピークに下降をみせ、50年度には87万3,948人(株式会社はとバス「はとバス三十五年史」より)へと減少していた。その大きな要因は国鉄が昭和51(1976)年11月に行った大幅な運賃値上げ。これが人々の旅行意欲減退の一因となっていた。

東京郊外コースを首都圏全域でアピール

三宅島

はとバスの郊外コースのひとつ、「夜の観光と伊豆七島コース」内の三宅島の景色

 輸送人員減少の主要因が外的なものであるとはいえ、それをあげつらっていても局面は打開されるものではない。そこで、はとバスでは、地方上京客減少による定期観光バス利用客減を補うべく、都内および首都圏の旅客を郊外各コースへ誘致する方針を決める。「江の島・鎌倉」「三浦半島一周ブルーライン」「湘南海岸と芦ノ湖箱根回遊」「御岳・奥多摩ファミリー」「夜の観光と伊豆七島シリーズ」「ミナト横浜名所めぐり」「奥多摩秋川パノラマコース」などの宣伝活動を、折込広告などを用いて積極的に展開した。
 この新たなチャレンジは、上京客の落ち込みをカバーするだけの成果は得られなかったものの、関東周辺の自然を見直す機運が高まっていた都会人への訴求力は高く、定期観光バス部門の新たな顧客開拓に貢献した。

  • 次のページ:業績回復の次の一手は? 昼コース大改訂の行方に注目!

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今田 壮

プロフィール今田 壮ライター&編集&ときどきカメラマン

■1975年 広島県生まれ。東洋大学大学院修士課程中退(哲学専攻)。
■旅、歴史、サブカルチャーを得意とする、編集プロダクション・風来堂代表。
■温泉、山城、猫、路地好き。
■著書に『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫/今泉慎一名義)。
本連載のほか、『秘境路線バスをゆく』シリーズ(イカロス出版)、『全国ローカル路線バス』(じっぴコンパクト新書)など、最近はバスにまつわる本の編集に多数関わっている。

【はとバス昭和物語/編集協力】株式会社P.M.A.トライアングル