はとバス昭和物語  番外編 時代変遷を映す観光バス車両の進化

旅読人コラム2017.06.27

はとバス昭和物語

皇居前広場に並ぶ草創期のガソリン車。右から「はるな号」「筑波号」「多摩号」。昭和20年代に撮影された貴重な1枚

時代変遷を映す観光バス車両の進化

 わずかバス10台で、焦土と化した東京で開業したはとバス(当時は新日本観光)。今では137台(平成29<2017>年6月現在)のバスを保有するまでになった。観光バスに必須な要素といえば、快適性と楽しさ。はとバスでは、時代ごとの乗客のニーズを的確に捉え、時代の一歩先を行く車両を次々と導入してきた。それは、道路運送車両の保安基準という枠の中での、いかに創意工夫を凝らすかという試行錯誤の繰り返しだった。
 今回は、はとバスが導入してきた車両の変遷を昭和から平成へとたどりながら、歴代の名車にまつわる時代を映したエピソードもご紹介していこう。

ないない尽くしの戦後、バス調達も困難を極める

はとバス開業当時の1台

新日本観光が経営していた旅館『勝仙閣』の前に停まる、創業時のバス。性能が悪く、故障も頻発した

 焦土と化した東京で、観光バス事業を再興する──そんな明確な目的のもと、はとバスの前身である新日本観光が設立されたのは昭和23(1948)年8月のことである。大いなる理想を掲げての船出ではあったが、戦後の極度の物資不足の中、車両不足、燃料不足、そして運転士不足と、まさに“ないない尽くし”でのスタートだった。
 ちなみに、昭和20(1945)年の全国のバス事業の実態を、戦前の昭和11(1936)年と比べると、実在車数は2万8,745両から1万1,109両へと減少、実働車数では落差がさらに大きく2万3,433両から、わずか4,629両へと落ち込んでいる(総務省統計局「車種別保有自動車数(昭和11年度~平成16年度)」より)。
 昭和23(1948)年5月の時点においても、ガソリン車3,240両に対して、木炭車5,051両、薪車1,839両と、代用燃料で走る車両の比重の方が高い有り様だった。とはいえ、バスを確保しなければバス事業は始められない。関係者の奮闘の結果、新車・中古車をかき集め、わずか10台であるが、戦後の観光事業の大海原に乗り出すことになったのだ。

はとマークが排気ガスで真っ黒なカラスマークに

はとバス「いすゞBX81型」

昭和24(1949)年に導入した車体。初期は天然ガスを使用し、後にディーゼル車に変更された

 明けて昭和24(1949)年1月1日、記念すべき団体貸切第1号車である成田山初詣のバスが都内から出発した。当時、東京でGHQ関係以外の観光バスを見かけることは皆無で、成田山の駐車場でも観光バスは、はとバスのみだったという。まさに、戦後観光バス事業の先駆けとなったのだ。
 とはいえ、内情はまさに綱渡りだった。引き受けが遅れていた車両が加わり、実働車両は11両となったが、全車両を稼働させるには運転士が不足し、やむなくタクシー会社から運転手を臨時に派遣してもらいことなきを得る状態だった。また、燃料の確保も困難を極め、ガソリン車を天然ガスで走れるように改造。ところが、天然ガス車に慣れていない臨時運転士が途中で燃料を使い果たし、バスが立ち往生したこともあった。当時、優秀な運転士とは、粗悪な燃料でバスをより長く走らせる技術を持っていることが必須だったのである。
 昭和24(1949)年6月には、運転士は19名に、車両は22台へと増え、ようやく観光バス会社としての体裁が整い始める。だが、相変わらず質の悪い燃料で走るバスは馬力が足りず、靖國神社横の九段坂ですら、排気ガスをもくもくと吐きながら登るのがやっとだったという。登ったあとは、車体のはとマークが真っ黒なカラスになった……そんな苦笑を誘うエピソードも残っている。

昭和20年代の車両は、山や川の名前が愛称に

はとバス定期観光「富士号」

昭和24(1949)年3月19日、初の定期観光コース「都内半日コース」の記念すべき第1号車「富士号」

「右に見えるは明治神宮でございます」。
 昭和24(1949)年3月19日、はとバスの悲願であった都内定期観光バスがついに復活した。都内半日Aコースで、栄えある第1号車となったのは、ふそうガソリン車「ふそう/帝国自動車工業/B1型」1948年式35人乗り。「富士号」と命名された1台だった。昭和20年代、はとバスでは車両それぞれに名前をつけていた。草創期のガソリン車は、「富士号」のほか「筑波号」「はこね号」「はるな号」「天城号」と関東圏を代表する名山から、その名をとっている。ちなみに、いずれもガソリン車であったが、燃料事情から天然ガス車仕様に変更されている。
 続く、昭和24(1949)年に導入された「いすゞ/日本自動車/BX81型」5台には「多摩号」「隅田号」「天龍号」「木曽号」「利根号」と、河川の名前がつけられた。この5台にはラジオとマイクが初めて装備され、観光バスとしてのベースが整備される。ちなみに、それまではガイドは声を張り上げての案内で、一巡するたびに声を枯らしていたという。
 翌昭和25(1950)年には、社内が明るく上方の視界も良好な天窓つきのバスを導入。これがはとバス車両のスタンダードとなっていく。この時代はエンジンが車両前方に配置された、いわゆるボンネットバスであったが、昭和28(1953)年ころからは、早くも箱型の車両を導入。外国人観光客の受け入れてとともに、戦後第1次の観光ブームへの対応を着々と進めていった。
 

整備士が臨時運転士に? 創業当初の秘話も

はとバス整備工場の整備士たち

開業時、東京・中野に設けられた整備工場。始業前に準備体操をする整備士たち

 昭和23(1948)年の会社設立から、矢継ぎ早に車両を補充し、定期観光コースを開設し続けたはとバス。草創期ならではの苦難の数々を乗り越えてきたが、安全な運行を陰で支える整備の現場とてそれは同じだった。
 開業当時、はとバスの車庫は東京・中野区に設けられた。自動車会社の修理工場跡地を借り受けたもので、その空き地の一角にバラックを建てて整備工場とした。最初に採用された3名の整備士の初仕事は、燃料配給が受けられず走れないガソリンエンジンのバスを、プロパンガスや松根油(松からとれる油)などの代用燃料で走れるよう改造することだった。タイヤも貴重品で、表面の溝がすり減ってなくなり、中の繊維がむき出しになるまで使用。そのためパンクがつきものだったが、スペアタイヤを積んでおく余裕もない。運転士からパンクの一報が入ると、車で現地まで駆けつけ、その場でパンク修理を行ったという。
 また、整備士が突然、運転士に駆り出されたこともある。昭和25(1950)年頃のこと。十数名の予約客がやって来たが、本社と営業所との連絡不備で車庫は空っぽ。バスは出払い、運転士もガイドも不在。とはいえ、予約客を放っておくことはできない。
 そこで、1人の整備士が臨時運転士に駆り出され、修理中のバスを工場から引っ張り出して乗務することに。ガイドは庶務の女性が務めた。さらにオーバーヒートに備え、営業課長は水いっぱいのバケツを両手に乗り込んだ。あまりの不手際に、最初は激怒していた予約客たちだったが、3人の奮闘に感動し、最後は拍手での別れとなったという。

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今田 壮

プロフィール今田 壮ライター&編集&ときどきカメラマン

■1975年 広島県生まれ。東洋大学大学院修士課程中退(哲学専攻)。
■旅、歴史、サブカルチャーを得意とする、編集プロダクション・風来堂代表。
■温泉、山城、猫、路地好き。
■著書に『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫/今泉慎一名義)。
本連載のほか、『秘境路線バスをゆく』シリーズ(イカロス出版)、『全国ローカル路線バス』(じっぴコンパクト新書)など、最近はバスにまつわる本の編集に多数関わっている。

【はとバス昭和物語/編集協力】株式会社P.M.A.トライアングル