はとバス昭和物語  第5回 バス業界の苦闘の日々からの脱却(昭和45~49年)

旅読人コラム2017.05.30

はとバス昭和物語(昭和45~49年)

大阪万博の開会式。77ヶ国が参加、6,400万人超の入場者を集め、大成功のうちに最終日、昭和45(1970)年9月13日を迎えた

連載「はとバス昭和物語」 ~車窓から見た〝あの頃〟の東京~

 「人類の進歩と調和」をテーマに、77ヶ国が参加し、約半年にわたる開催期間中に6,400万人を超える人々が訪れた、昭和45(1970)年の大阪万博(日本万国博覧会)EXPO'70。
 東京オリンピックから続いた国内旅行ブームは、この世紀のイベントでひとつの頂点を迎える。好景気に沸き返る旅行業界であったが、その波に乗ることのできない部門があった。それは、東京オリンピック以降多くの難題を抱え、その回復のきっかけを掴めずにいたバス業界である。
 世のお祭りムードを横目に、苦況脱出への足がかりを必死に模索するバス業界。はとバスとて、例外ではなかった。

経済大国ニッポンの姿を世界に発信した“バンパク”

大阪万博

それぞれ持ち場ごとのユニフォームに身を包んだスタッフが勢揃い。押し寄せる観客に対応した

 昭和39(1964)年の東京オリンピック以来の国家的事業となった「日本万国博覧会」、通称:大阪万博。東京オリンピックが、日本の戦後復興を世界にアピールする場だったのに対し、大阪万博は驚異的な経済成長を続け、昭和43(1968)年には国民総生産(GNP)で、アメリカに次ぐ経済大国となった日本の国力を世界に知らしめた。
 海外からは76ヶ国、国内からは日本政府ほか日本万国博覧会地方公共団体出展準備委員会など32団体が参加。「人類の進歩と調和」をテーマに、世界中の人々が一堂に会する、かつてない国際的なイベントであり、国民の目を広く世界へと向けさせた。
 舞台となったのは、大阪府吹田市の千里丘陵。約330ha(約3.3km²)の広大な土地に、独創性を競うかのように各国の個性豊かな大小の展示館(パビリオン)116棟が立ち並んだ。会場の総合設計は丹下健三や黒川紀章、菊竹清訓らが担当。太陽の塔の作者である岡本太郎らのアーティスト、さらにロゴマークや会場案内の絵文字、図記号(ピクトグラム)を制作したデザイナーなど、日本のクリエイティブ力が結集した機会となった。

万博の陰で苦戦する定期観光 はとバスならではの打開策とは

案内所

昭和45(1970)年3月開業の世界貿易センタービル(浜松町)に案内所を新設。羽田空港からモノレールを利用する国内外の観光客に対応した

 はとバスとしては、会場が大阪だけに定期バス、貸切バス事業には直接の影響は見込めないだろうと予測を立てていたものの、近年では類を見ない大型イベントであること、外国人観光客は東京を経由して会場入りを試みるのではないか、または東京観光を行うだろうとも検討。日を増すごとに期待感も増し、浜松町にある世界貿易センタービル内に案内所を新設するなど、万全の体制を築いた。
 邦人コースは短時間で都内周遊ができるようにと、世界貿易センタービル40F展望台シーサイドトップから代々木競技場を回る「東京ミニコース」を設けた。一方、外国人向けには午前、午後コースの増強策として田崎パール店(TASAKI)<真珠見学>-清澄庭園-浅草観音(浅草寺)-浅草スペースタワー(1973年営業廃止、解体)をめぐる「外人特殊午前Mコース」と、福田屋(日本家屋の料亭、閉店)-明治神宮-代々木競技場-皇居をめぐる「外人特殊午後Tコース」を昭和45(1970)年3月から開始した。しかし、万博の定期観光部門への影響は芳しくなかった。
 貸切部門では輸送人員、収入とも前年比約8%増と、ある程度反映がみられた。そんななか、国内・海外旅行業を担っていたグループ内の「はとバス興業」が大きな実績を残す。大阪万博に際しては、万博急行、万博パブリック、万博吉野遺跡と霊場、万博京都葵祭など、様々な「会員バスコース」を企画、実施して業績をあげた。

毎日、話題に事欠かなかった全国民注目のイベント

太陽の塔

大阪万博のシンボルゾーンに建設された“太陽の塔”のもと、国境、人種、政治体制などを越えて、世界の人々が集った

 大阪万博は昭和45(1970)年3月15日から9月13日まで、半年の会期中の入場者数は6,421万8,770人、1日の最高入場者数83万6,000人を記録。目標入場者数の3,000万人を倍する数となった。入場料は大人(23歳以上)800円(現在の2,400円に相当)、青年(15~22歳)600円、小人(4~14歳)400円。平均月収が5万円ほどの時代、決して安い金額ではなかったが団体旅行、個人旅行を取り混ぜ、全国から観客が押し寄せた。
 その要因のひとつとして、テレビ、新聞、ラジオなどによる連日の大阪万博報道が挙げられる。アメリカ館のアポロ宇宙船と月の石、ソ連館のソユーズ宇宙船をはじめとした珍しい展示物、連日会場内で行われるイベント、お国柄を反映した色彩豊かな制服姿のコンパニオン、はては展示館前の大行列の様子まで、話題にはこと欠かなかった。“ばんぱく”や“エキスポ”という言葉が、広く知られ、だれもが口にするようになったのも大阪万博以降のことである。
 万博開催下、首都交通圏のバス(貸切、乗合ふくむ)輸送人員は昭和45年度前年比4.7%増と予想を下回ったが、開催地である京阪神交通圏はなんと1%減という惨状を呈した。万博ははとバスのみならず、バス事業者すべてには恩恵を与えなかったのである。

世の観光ブームも経営に資することなく危機は続く

はとバスガイド(昭和40年代)

全国的な観光ブームを迎えていた昭和40年代。はとバスガイドのサービスは、いつの時代も利用者から高評価を得ていた

 東京オリンピックで海外への目を開かれた日本人にとって、大阪万博は世界をより身近に感じる画期的なものとなった。また、昭和45(1970)年3月1日、海外観光渡航時の持ち出し外貨枠が1人あたり700ドルから1,000ドルへ拡大、同月11日にはパンアメリカン航空(1991年に倒産)のジャンボ機が羽田空港に初飛来するなど、海外旅行は単なる憧れから実現可能な旅へとなりつつあった。
 以上のように、日本人に大きな衝撃を残した大阪万博であるが、当時のバス業界はどのような状況にあったのだろうか。東京オリンピックから大阪万博へかけて全国的な観光ブーム下にありながら、需要停滞、競争激化、整理統合等、多くの難題を抱えたままバス業界は推移していた。はとバスも例外ではなく、経営苦難期にあたり、柱である定期観光バス事業の輸送人員向上に全力で取り組んでいた。
 そんな矢先、常に率先し陣頭指揮にあたっていた渡辺伊之輔社長が、大阪万博閉幕前日の昭和45(1970)年9月12日に急逝。ここに優れたリーダーを失うことになる。

  • 次のページ:経営難の中、迫りくる石油危機……はとバスの命運は?

この記事の続きを読むには、会員登録が必要です。

すでに会員の方は、こちらからログインできます

今田 壮

プロフィール今田 壮ライター&編集&ときどきカメラマン

■1975年 広島県生まれ。東洋大学大学院修士課程中退(哲学専攻)。
■旅、歴史、サブカルチャーを得意とする、編集プロダクション・風来堂代表。
■温泉、山城、猫、路地好き。
■著書に『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫/今泉慎一名義)。
本連載のほか、『秘境路線バスをゆく』シリーズ(イカロス出版)、『全国ローカル路線バス』(じっぴコンパクト新書)など、最近はバスにまつわる本の編集に多数関わっている。

【はとバス昭和物語/編集協力】株式会社P.M.A.トライアングル